キャンディと王様―第一話・ただいま
にゃんしー
 カフェ「クラムボン」は、京都・烏丸三条の交差点を一本奥に入ったところにあった。
 烏丸三条とは、南北に走る烏丸通りと、東西に走る三条通りが交わる地名を指す。平安京に由来し町の区画が碁盤目状に並ぶ京都の町では、このように通りの名前で場所を示すことが一般的だ。
 商業的な意味では、京都の中心部は四条河原町にある。これも同様に、四条通りと河原町通りが交わる地名だ。狭い歩道に沿って人が多く行き交う河原町通りを北に上がっていくと、東西に走る三条通りにぶつかる。百貨店やブランド物のテナントが多く並ぶ四条通りと異なり、三条通りには文化的な店が多く並ぶ。純喫茶、古着物屋、古書店、ライブハウス、雑貨屋……。そのジャンルは古今を問わない。京都という町を、悠久の歴史と未来が重なり合うシーンとして見るならば、三条通りはその象徴的な場所と云っていい。
 三条通りを西に歩いて行くと、通りを行き交う人が少なくなるのと反比例して、サブカルチュラルな雰囲気は一層濃くなる。そのまま烏丸通りまで歩くと、漫画図書館や野外劇場、中国茶カフェなどが集まったとりわけマニアックなエリアがある。カフェ「クラムボン」も、その中にあった。
 カフェ「クラムボン」が入る貴賓館風の建物は、昭和初期に建てられたものという。京都ではそのような物件を改装して今なお使うのは珍しくない。入口には、ひび割れた石造りの階段に、赤い絨毯が渡されている。茶色いペンキで塗られたばかりの重厚な扉は閉められていて、「カフェクラムボン、搬入のため8月2日から3日間お休みします」と張り紙がされていた。
 カフェ「クラムボン」は、芸術系の学生が多い京都の町にあって、各種アートの発信基地として使用されていた。歴史も長く、ここで個展を開いたのちにスターダムに上がった芸術家は多くいる。ただ、ここを使用する時点ではまだ名も売れていない学生ばかりで、使用料が安い代わりに、サポートも殆どしないというのが一般的だった。この日、搬入のためにわざわざ数日休むというのは、例外的にそれなりのアーティストが展示を行うということになる。
 赤茶色の煉瓦張りの壁に、ビラが多く貼られている。そこには「山城青春個展・あの夏の日」と印字されていた。風に煽られ、地面に落ちている一枚を、ぱりっとしたスーツ姿の男性が拾う。もう片方の手には、ファミリーマートの袋。男性はそのまま急ぎ足で、クラムボンの中に入っていった。
 
「山城先生、お疲れ様です。ごはん、買ってきました」
 山城、と呼ばれた女性はしばらくぼーっと前を見つめたのち、思い出したように振り返った。
「えっ、私?」
 その女性は壁にもたれるように地面に座ったまま、ファミリーマートの袋を受け取ると、ウィダーインゼリーのマルチビタミンと爽健美茶を取り出し、上目使いで言った。
「山城って誰かと思ったじゃん。旧姓の宮本か、青春って呼んでよ」
 スーツ姿の男性は姿勢を正し、汗を拭きながら応える。
「大変申し訳ありません。宮本先生」
「いやいや、青春て呼んでいいよ、新マネージャーさん」
 広いカフェギャラリー内に、青春がウィダーインゼリーを吸う「チュー」という音だけが響く。スタッフは多くいたが、昼食休憩で出払っており、他に誰もいない。夏の強い太陽の光が、厚手のカーテンを通りぬけて、やわらかい光で漏れる。それに映し出されるように、ギャラリー内に青春の描いた水彩画が等間隔で並んでいた。
「……搬入、終わったんですか」
 マネージャーが、呟くようにそう問いかける。青春は、ウィダーインゼリーを咥えたまま、小さく頷く。
 そのとき、ギャラリーの扉がゆっくり開き、髪の長い、若い女性がそっと顔を出した。赤を基調とした柄の強いトップスに、黒色のふわっとしたスカートを履いており、見るからにアーティスト系の人間であると伺える。手もとには、無印の茶色いダブルリングノート。その女性はマネージャーの姿を認めると、軽く会釈をした。
「ちょっと君、ダメじゃないか!」
 マネージャーは、声を荒げる。
「約束時間より三十分も早いじゃないか!先生は今、休憩時間なんだから、」
「いいって!」
 青春は強い調子で言うと、立ち上がった。足元に空になったウィダーインゼリーのパウチを放ると、マネージャーがそれを拾う。
「今日はありがと。……インタビューだっけ?わたし、今回絵画の個展をやる宮本……じゃない、山城青春と言います。よろしくー」
 青春がそう言うと、その女性は焦ったようにポケットから名刺ケースを取り出し、白色の名刺を両手で青春に手渡した。
「わたし、京都精華大学の、近藤あさひと言います。えっと、現代絵画をやってます。青春先生の大ファンです!」
「あさひちゃんか、かわいいねー」
 青春は右手で名刺を受け取ると、じっと見た。KOKUYOの名刺用紙に、インクジェットプリンタで印刷した感じかな。せっかく写真載せてるのに、解像度が低いからよく見えないな。それに、はさみでカットしたんだろうけど、ちゃんと真っ直ぐ切れてない。……私にも、こんな頃があったなー。
 青春は、ふっと笑った後、次いで言った。
「インタビュー、どこでやる?どっかカフェいく?」
「私は、どこでも!」
 青春はそのまま地面に座ると、右手を挙げて言った。
「じゃあ、ここでやろっか」
 あさひは、若干躊躇した後、少し離れた場所に座る。
 
 インタビューを始める前、あさひは青春の横顔を見た。肌の色が透き通るように白い。まん丸い銀縁の眼鏡の奥で、短いまつ毛が跳ね上がっている。前髪を真っ直ぐ揃えて短く切っている分、顔が丸い。肩までの黒髪が外に跳ねていて、アーティスティックであるのと同時に、マスコットのように可愛らしく見える。
「ちょっとインタビュー、早く」
 青春が笑いながら言うと、あさひは急ぎノートをぱらぱらめくる。シャーペンを数度ノックすると、読み上げるように言った。
「青春先生はニューヨーク、パリ、フィレンツェ、北京など世界各国で個展をされているのに、今回、このような小さい会場で個展を開かれるのは何故ですか?」
 青春はしばらく考えた後、おかしそうに笑って言った。
「クラムボンがしょぼい会場って言ってる?」
 あさひが慌てて、何かフォローしようとすると、青春はその肩に手を置き、優しく握るようにして言った。
「今回のタイトルが『あの夏の日』だからね。自分が高校生の頃を思い出しながら描いたから、若い子に見てほしかったんだよ」
 次いで青春は、あさひの目をまっすぐに見つめて言う。
「だからね、あさひちゃんみたいな若い子に興味持ってもらえて、すごく嬉しい」
 あさひは頬を染め目を逸らすと、小さい声で言った。
「青春先生が高校生のときって、どんな絵を描かれてたんですか?」
 青春は、じっと前を見た。クーラーの音が低く唸っている。マネージャーが腕時計を確認すると、左手に持つファミリーマートの袋が、がさ、と音を立てた。
 しばらくして、あさひが青春の横顔を見ると、青春は強い口調で言った。
「野球をやってた!」
 あまりに予想外の答えに、あさひの口から、え、という高い声が出る。青春は隣に座るあさひの肩を強く数度叩く。白く丸っこい耳の先が、赤く染まっていた。
「これねー、あさひちゃんだから言うんだからね。他のところでばらしちゃだめだよ」
 それから青春は、マネージャーのほうを向いて人差し指を口に当て、しっ、と声を出した。マネージャーは小刻みに数度うなずく。
「なんで……」
 あさひが小さい声で聞くと、青春は天井を向いたまま、語り出した。
「私、子どもの頃からずっと、絵を描けって言われてたんだよ。お父さんが大企業の役員で、超豪邸に住んでてさ。なんか有名な絵とか、普通にすごいいっぱい家にあって。お金稼げなくてもいいから、絵を描いて家に飾らせろって言われて。めっちゃ高い画材とか小学校のときに与えられて。それがお父さんのためみたいで、すごいいやで」
「小学校の途中からと、中学校のときと、陸上部に入ってたんだよ。絵を描く以外なら、なんでもよかったのかな。とにかく白い肌がすごいコンプレックスでさ。絵描きみたいじゃん?だから、外に出る部活のほうがよかったのかなー。昼休みとか、学校の屋上で裸になって、肌を焼いたりしてたよ。身体にサラダ油塗ってさー。そんで、気が付いたら寝てしまって、後で身体が真っ赤になってすごい痛かったりした」
 青春は、あはは、と笑った。
「高校に入ったときにさ、陸上部がなかったんだよ。そんで、なんとなく……なのかな。野球部に入った。女子高だから女子ばっかの野球部だったけど、かなりガチだったよ。だって私、プロに入って坂本選手と二遊間組むんだって、本気で狙ってたもん」
 そこまで聞いて、あさひは質問を入れた。
「坂本選手って、ニューヨークヤンキースの坂本選手ですか?この前、日米通算2000本安打達成した」
 青春は、うなずいた。
「じゃあどうして、絵を描こうと思うようになったんですか?」
 少し入り込みすぎかもしれないと思った。それでもここまで聞いて、どうしても質問しないわけにはいかないと思った。この種の質問において、青春先生が答えたことはないはずだ。あさひの知る限り、京都造形芸術大学以前の青春先生の経歴は、すっぽりと抜け落ちている。
 しばらく黙った後、青春は途切れ途切れに語り出した。
「高校二年生のときに、野球部が廃部になってさ」
「ずっと野球ばっかしてきてたから、することが他に思いつかなくて」
「遊び友達はいっぱいいたけど、野球がいざなくなると、そういうの違うなって思って」
「なんだろう」
「気が付いたらさ、筆を取ってたんだよね」
「学校の帰りに、ダイソーに寄って、安い筆と16色くらいしかない絵の具買ってきて」
「野球をしていた自分たちの姿を、残しておきたいと思ったのかもしれない」
「毎日毎日、野球の絵ばっかたくさん描いた」
 あさひは、ひとつ質問をした。
「高校のときに、全国高校生絵画大会で最優秀賞を取ってますよね」
 青春は、少しさびしそうに笑って言う。
「その絵、見たことある?野球の絵じゃなかったでしょ?」
「はい。インターネットで見たことあります。でも空が黄色い、すごいきれいな絵でしたけど、」
 青春は、大きなため息をつく。
「野球の絵って、誰にも見せたことがないんだ。あの高校二年生のときに、憑りつかれたみたいに描いた野球の絵を、越える絵を私はまだ描けてない。……あの頃の絵、全部捨てちゃったから分かんないんだけど。それが私が絵を描く、理由ってやつかな」
 青春は立ち上がった。そのまま窓にかけられたカーテンを大きく開くと、夏の強い太陽の光が入り込んでくる。
「先生!絵が……」
 マネージャーが慌てて声を上げると、青春は、
「いいって」
 と笑って答えた。
「たまには、夏の光を吸い込ませてあげないと」
 カフェギャラリーの一番奥にある絵が、その光を直接受ける。今回の個展のために描き下ろされた作品「あの夏の日」だ。公開こそしていないが、関係者からの口コミであっという間に広がり、既に本個展での最大の話題作となっている。
 灰色を基調とした大地に、赤い川が流れている。それを青春はじっと見つめると、やさしく語りかけるように言った。
「また描けなかったね」
 マネージャーがあさひに対して腕時計を指し示し、もう帰るべき時間であることを伝える。あさひは立ち上がると、最後にひとつ、質問をした。
「それ以降、もう野球はしていないんですか?」
 青春は「あの夏の日」に向かい合ったまま、振り返らずに答えた。
「高校三年生のときに、もう半年だけやったよ」
 マネージャーが、そっとカーテンを閉める。青春は丸眼鏡を外し、手のひらをじっと睨むと、言った。
「あんなに熱い夏は、もう無いかな」

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