行きたいところ / 泉由良



 その頃ゆぅこちゃんは芸大を休学していて、私は高校に行かずにゆぅこちゃんの家に寝泊まりしていた。そう大々的な不登校かつ家出だというわけではなかったが、ちょっとした気分でゆぅこちゃんの家に立ち寄った、というにはかなり深々とゆぅこちゃんのアパートに住み込んでいた。両親は(おそらくやきもきしたあと)ゆぅこちゃんに、
「すみません、理子をよろしく頼みます」
 と、手紙を寄越した。私は今までこんな風な悩みを彼らに掛けたことはなかったし、だからこそ両親も何か感じるところがあったのかも知れない。県立高校の国際特進Sコースは、私は全く行きたいと思う意志を持って入れられた場所ではなかったことくらいは、幾ら彼らが愚鈍と云えども、それくらいは、分かっていたかも知れない。
 兎に角、私はゆぅこちゃんの部屋のソファに埋もれるようにして暮らしていた。
 ゆぅこちゃんが、両親が(理子をよろしく頼みます)と云えるに値する信用ある立派なおとなであったかというとそれはなかなかに疑わしく、第一にゆぅこちゃんは美術造形の大学院に入ってから暫くして、休学してしまったような人物だった。でも、私たちは仲良しだったと思う。
 ゆぅこちゃんは問屋さんから押しピンを大量に買っていた。画鋲というやつだ。小学校でお習字や風景のスケッチを廊下に展示するための、あの鋲だ。ゆぅこちゃんが仕入れてきた押しピンは、透明のプラスティックと針だけのごく一般的なもので、しかしそれを箱にいっぱい買ってくることはなんだか珍しい。
 私の視線に気付いたゆぅこちゃんは応えた。
「百円均一だと、追いつかないから」
「何に追いつかないの?」
「いっぱい要るのよ」
「ふうーん」
「ウィルキンソンのむ? ジンジャーエール」
「ジャックダニエルが良い」
「理子ちゃんそれ好きだね。水割りでしょ。氷、あるから」
 ゆぅこちゃんはのみものをを色々と部屋に揃えている。アパートは無駄に広かった。生成り色の広い箱のようだった。ゆぅこちゃんの制作があるから、少し美術室に似た匂いがする。交通機関が発達していない場所だから安いのだろう。
「ゆぅこちゃんはのむ?」
「私サンペレグリノ。まだ作業中だし」
「取ってくるね。お腹空いた?」
「んー空いたかな。理子ちゃん何か作ってくれるの? そう云えば夕食食べてないね」
「茄子とトマトあるし、あと玉葱も。パスタあるし、昨日オリーヴオイル買ったし」
「おぅぅ嬉しいな。じゃあよろしくだね」
 私は軽食を作るのが好きだ。好きな友だちのためにちょっとしたものを作るのが好きだ。
 ジャックダニエルの水割りをのみiPhoneでPodcastを聴きながら、野菜を刻んだ。
 PodcastにBBCの6分間英語講座を登録していて、私は欠かさず聴くことにしていた。正直に云うと、TOEFUL講座も数種類聴くことにしている。私は英語は覚えたい。
 やがてオリーヴオイルと玉葱の良い匂いがしてきて、茄子とトマトとピーマンはつやつやと美味しそうに仕上がった。白いカフェオレボウルに入れて、プラスティックのピックを立てて運んでゆく。ゆぅこちゃんちの居候はとても気が楽だ。
「でーきーたーよー」
「ありがとーう。ん、ちょっと置いておいて。冷めても美味しいでしょ」
「冷めても美味しいよ。勿論」
 ゆぅこちゃんは椅子の上に乗って、天井に何かの紙を貼っていた。それは押しピンで刺していたのだ。押しピンは普通、四隅に刺したら画用紙や模造紙なんかは留まるものだが、ゆぅこちゃんはその紙の上一面、ぎっしりとくまなく鋲を刺していた。
 私は黙ってそれを見ながら、野菜を摘み、Podcastを聴き続けていた。何しろ毎日配信されてくるものだから、溜めては大変なのだ。時々は動画を見たり、指定されたwebサイトに飛んだりして、理解を深めなければいけない。
 天井に刺されてゆくその紙が3分の2ほど埋まった頃、ゆぅこちゃんは首を回しながら椅子から降りてきた。
「ずっと上向いてたわー」
「新しい制作してるの、」
「まあね、うー、美味しそう。頂きまあす」
 ゆぅこちゃんはとても旨そうに食べるから、私も嬉しい。
「理子ちゃんはいつも美味しいものを作るねえ」
「作りたいときだけだよ」
 ゆぅこちゃんはちょっとだけ私の肩を寄せて、ハグの2分の1みたいな仕草をする。
 それから、炭酸水をのみながら話した。
「ウィルキンソンとかサンペレグリノや、まあ勿論ペリエは良いんだけど、」
「うん」
「ゲロルシュタイナーはちょっとだけ引いてしまう」
「最初の2文字らへんに?」
「そうそうそうそう」
 ゆぅこちゃんがわらい、私もわらった。
「でもそこがいいんだよね!」
 そう結論は出されて、私は頷く。
「コーントレックス箱買いーコーントレックスはこはこはこ買い」
 ゆぅこちゃんはご機嫌そうだ。
「天井、何貼っているの?」
「絵だよ、絵。画用紙に描いたやつ。水彩」
「ふーん。画鋲が透明だから、綺麗に見えるね。反射っていうか」
「そうだね、乱反射?」
「ああいうの見てると」
 私は常日頃考えていることをぽろりと呟いた。
「ああいうのがチラチラ光ってると、ダイヤモンドとか欲しがるひとの気が知れないなあって思う」
「ああ、そうだね、こっちの方が良いよね」
「高級なガラス細工も要らない。プラスティックだってガラスだって、透明で光っててみんな綺麗じゃん。みんなあんまり思わないのかな?」
「そうだねえ、ダイヤモンド、要らないなあ」
「ゆぅこちゃん、何か宝石とか持ってる?」
「いやー……あ、ガーネットの付いたネックレス持ってる。小さい石だけどさ、誕生石だからっておじいちゃんが昔買ってくれたんだよ」
「そっかぁ。理由が良いね」
「理由無きダイヤは価値が無い?」
 ゆぅこちゃんが可笑しそうに私の顔を覗く。
「理由無きダイヤは価値が無い」
 私はふむ、と頷くように繰り返した。
 今日はもういいや、とゆぅこちゃんは云って、サングリアを持ってきた。もういい、とは云っても、ゴブレットに注いだサングリアを片手に、ゆぅこちゃんはクロッキー帖にぐるぐると線を引いている。真面目なのだ、と思う。こんなに真面目だったら、学校を休学するのも仕方の無い話だ。私はちょっとだけ、自分の気分に重ねてそう考えた。
 私はずっとPodcastを聴いている。
 お酒が少しずつ減ってゆく。
 やがて窓の外にしらじらと夜明けの兆候が現れ、ゆぅこちゃんが、
「私もう寝るね」
 と、云った。
「理子ちゃん寝るとき、冷房よろしく」
「うん」
 私はまだちょっとは眠らないな、と思ったので頷いた。Podcastは終了にして、雑誌を捲っていた。
 ゆぅこちゃんは部屋の隅の簡易ベッドですぅすぅと眠り始め、私は改めて天井を見上げた。一面画鋲で刺された画。それが、肌色であるかのように見えて、はっとした。ゆぅこちゃんが目を覚まさないように、そうっと背伸びをして見上げる。
 女の子の顔だ。
 拙い筆致の、女の子の肩から上の水彩画だった。実際に6歳だかそれくらいの子が描いたものだ、と分かった。そして、画鋲で埋められるのをまだ免れている部分に、「かなむらゆうこ」と描いてあった。どきっとした。ゆぅこちゃんの自画像じゃないか。
 自分の自画像を、画鋲の針で念入りに刺しているゆぅこちゃん。

 ねえ、ゆぅこちゃんも何処かに行ってしまいたいの?
 ねえ、ゆぅこちゃんも何か消したいことがあるの?
 私は声を出せずに、右目や鼻の穴なんかはもう針で刺しまくられて、そう、乱反射のプラスティック鋲の光しか見えない、天井に貼られた画用紙を見上げていた。
 ねえ、ゆぅこちゃん、この自画像、自分が描いた自分のかお、嫌いなの?
 だから、刺しているの?

 それから、いよいよ夜明けが本格的になってきたので、私は昂った気分を沈めようとそうっとゆぅこちゃんのゴブレットに残されていたサングリアをのんで、ソファに横になった。
 私は、6歳だか7歳だかのときの私のことを、あまり好きじゃない。
「私たち、夜行性動物だね」
 寝付きが悪く寝返りを打っていたら、ゆぅこちゃんが喋ったのでびっくりした。
「起きてたの?」
「なんか寝られないみたい」
「トーストとか焼く?」
「いいよ夜行性なんだから」
 私は立ち上がってカーテンをぴっちりと閉めた。朝が入ってこないように。
「夜行性動物園に入れられちゃうね」
「夜行性動物園?」
「夜にばっかり動くの、そこの動物」
「そんなのあるの?」
「なーいよっ」
「なんだ……」
 ゆぅこちゃんは適当な嘘をぺらぺらと話すのが好きなのだ。

 私はソファとタオルケットのあいだに戻り、ゆぅこちゃんは横になっていて、でもまだ眠れないようだった。ゆぅこちゃんも小さい頃に描いたのであろう自分の顔の絵を、鋲で埋めるようにびっしりと刺している天井の画を見上げているのが分かった。
「おかあさんね、」ゆぅこちゃんが云った。「おかあさんね、嫌いじゃないよ。たぶんいいひとなんだと思う」
「うん、」
「おとうさんもね、たぶん悪くない。いいひとだと思う。弟はいい子よ、とても」
「うん、」
「問題は私なんだよね、いつも、大体にして」
「……うん……」
 うん、しか云えずに相槌を打った。
 私もなんというか、そうなんだよ、と思いながら。
「何処かに行きたいなあ」  ゆぅこちゃんがそれまでのちょっと堅い口調を緩めて、云った。
「何処?」
「夜行性動物園行きたいなあ」
「それは存在しないんでしょ」
「うん、存在しない。残念だよね」
「うん……残念だね」
「理子ちゃん、おやすみなさい、よ。朝がやって来て私たち、砂になってしまうわよ」
「うん、……そうだね」
 私はゆぅこちゃんの吸血鬼ジョークに少し口元を緩めながら、ソファのクッションにあたまを乗せ直した。



 ゆぅこちゃんはその後院生を辞めてバーで働き始め、私は学校に戻った。国際特進Sコースは相変わらず嫌いだったのでのらりくらりと躱して過ごしたけれど、出席日数と単位以外のものは何も欲しくないと開き直れば、それはそれなりに楽なものだった。
 教室の机に向かって授業を聞き流していると時々、窓の外の青空から射す光で、ああ私砂になっちゃう、と思った。勿論ならなかったけれど気持ちはちゃんとざらざらに、そしてさらさらになって私はこぼれた。勿論からだは座席に着いていても。
 夜行性動物園のことを時々考えた。
 私はいつか、こういう自分を全部、画鋲の針で刺し尽してしまうのだろうか、ということは少しだけ時々考えた。
 高校を出たら海外へゆこうと思っていたので、Podcastは欠かさず聴いた。中国語も聴き始めた。誰かスイス人のひとに会ったとき、中国語と英語とスペイン語が出来たら、大体の国で話せるよ、と云っていたから。


 私を知っているひとが殆ど居ない場所に行きたい。
 あの頃、ずっとそう願っていた、と、今でも時々思い返す。
 私をあんまり知らないひとたちで溢れている、カフェでカプチーノをのみ、手帳に書き込みをしながら、束の間ぼんやりする。
 ゆぅこちゃんは元気だろうか。
 今では連絡先も分からない。
 シナモンパウダの浮いたカプチーノのふあふあの泡に、記憶はずっと溺れてゆく。