鰯のひかり / 斜線



 タタンタタン、タタンタタン。規則的な音を立てて走る列車の中、二人掛けシートの通路側に私は座っている。隣にはクラスメイトのハナちゃんがいて、私は彼女の肩越しに景色を見ている。窓の向こうは崖のようになっていて、その先にきらきら光る海が広がっている。それを見てはしゃぐハナちゃんの後ろ頭を私は見つめる。彼女の髪は黒々としていたけれど、明るい日光に照らされると少しだけ赤く透き通って、私はそれを綺麗だと思った。私たちは中学生で、私たちは仲良しだった。
 子供だけで遠出をするのは初めてだった。列車で1時間足らずの旅なのに泊まりがけで旅行にいくような高揚感に包まれていた。目的の駅に着くと私たちは列車から降り、改札を抜け、駅の外に出た。真冬の空気は頬をちりちりと刺したけれど海が近いからなのか、少し水分を含んだようなしっとりとした感じが快かった。
「息が真っ白だね」
「列車の中、暖かかったもんね」
 ハナちゃんの言葉に私は応えた。地面は凍りついていて、歩くたびにざりざり音を立てた。私たちは注意深くロータリーを歩き回り、ひとつのバス停の前で立ち止まった。10分くらいするとバスが来て、私たちを乗せてくれた。乗客は座席の半分程度を占めていて、のんびりとした雰囲気を漂わせていた。鞄を下ろして座席に落ち着くと、ハナちゃんはコートのポケットからキャラメルを取り出して私に分けてくれた。そのやり取りが何とも言えず楽しくて私たちはくすくす笑いながら銀の包みを剥がした。口に入れたキャラメルは冷えきって固くて、それにびっくりしてまた笑った。
 バスは市街地から細い山道に入ってごとごとと揺れながら進んだ。普段都会に暮らしている私たちには珍しい光景ばかりで退屈することはなかった。道が開けてきて少しするとバスは広い駐車場に停車した。降車して改めて息を吸うと、はっきりと潮の香りがして胸が高鳴った。


「イルカショー見れるかな」
「うん、楽しみだね」
 ハナちゃんの目が輝いている。きっと私も同じような目をしているだろう。高台に水族館があって、その向こうは海だった。私たちは口々に水族館への期待を語り合いながら、記念写真を撮るのも忘れて足早に中へ入った。
 水族館の中は薄暗くて人もまばらで、静かだった。水槽のガラスはとても分厚くて、歩いているだけで視界がぼやける。平行感覚がゆっくりと狂っていくような変な感じだ。そんな私とは対照的に、水槽の中の魚たちは鈍くきらめきながらすいすいと泳いでいる。色とりどりの熱帯魚たち、岩のような肌やキバを持つ魚、小さなタツノオトシゴ、岩壁に張り付く大きなタコ。立ち止まるたびに歓声を上げて、だけど声が響くものだからなるべく身を寄せて囁き合った。2人とも小さな笑いが止まらなかった。ふわふわした、不安定で愉快なこの感覚をハナちゃんと共有しているのが嬉しかった。
 一番大きい水槽にはサメやエイやマグロなど、迫力ある魚たちが入れられていた。私は岩陰に潜むウツボを観察する。ウツボはじっとして動かず、小さなまんまるの目はどこを見ているのかわからない。時折大きな口がゆっくりと開閉して、その隙間から尖った歯がずらりと並んでいるのが見えた。
「ハナちゃん、ウツボこわい!」
 そんな声を上げてハナちゃんの方を見ると、彼女は少し離れたところに立ってじっと水槽を見ていた。ハナちゃんは細いあごをくっと上げて、私の声にも気付かず魚に見入っているようだった。ほっそりして姿勢の良い彼女が、薄暗い空間に白く浮き上がるように私には見えた。
「アカネちゃん」
 不意に振り向いたハナちゃんに名前を呼ばれ、私はなぜかドキリとした。その場に突っ立ったままでいると彼女は私の隣にやってきて水槽の中を指差した。その指先は右上の方に上がってゆき、弧を描いて左下へ降りてゆく。ハナちゃんが指しているのはイワシの群れだった。イワシたちは塊になって滑るように水中を移動し、それぞれが体の角度を変えるたびにきらきらと光った。
「きれいだねえ」
 私が素直な感想を言うと、ハナちゃんは口元に大人っぽい微笑みを浮かべた。
「水槽の中の小魚を綺麗な群れにするには、緊張感がなくちゃいけないんだって」
 私はちょうど、絵本のスイミーのことを思い出していたからすぐに納得して頷いた。彼らは天敵から身を守るために群れを作るのだ。
「だから、お客さんに綺麗な群れを見せるためにこうやってマグロやサメと同じ水槽に入れてるんだね」
 私の言葉を聞くとハナちゃんは今度は声に出して「ふふふ」と笑った。それから私の目をまっすぐに見据えて、
「かわいそうだと思う?」
 と聞いた。彼女は微笑んでいた。私はその質問の意図もどう答えたら良いのかもわからなくて、思わず目をそらした。
「魚も大変だよねえ」
 ハナちゃんはその一瞬で子供の表情に戻って、わざとらしいくらい大きな声でそう言った。その時私は彼女が何を言いたかったのか、少しだけわかった気がした。今日はずっと楽しかった。だけどそのふかふかした楽しさの底には小さなガラス片みたいなものが落ちていて、時折踏んでしまってはチクリと痛みが走るのだった。
 ハナちゃんはすごく成績が良くて、来年の今頃は地域で一番の高校に入るための試験を受ける。彼女の家は厳しくて、その上本人もストイックで、だからきっとこんな風に一緒に遠出をするなんて最後なのだ。何となくわかっていたけど考えないようにしていたことが心の中を占領する。あと1年は同じ学校に通えるけれど、きっと放課後に遊ぶことも少なくなっていくのだろう。大好きなあの漫画も、あまり読まなくなってしまうのだろう。そういうことに納得して、脇目も振らずに駆け抜けていくのだろう。でも、ハナちゃんは光るイワシの群れを見ていた。美しくあるために追い立てられる魚たちを見て、何かを感じていた。
 私は、イルカショーを見ている間もハナちゃんのことを考え続けていた。となりで彼女がはしゃいでいる。水筒のお茶をこぼして焦っている。イルカのジャンプに歓声を上げている。一重瞼の目が笑っている。薄い頬に赤みがさしている。つやつやしたきれいな髪の毛が揺れている。
 ショーが終わるとハナちゃんは涙ぐんでいた。「感動しちゃった」と言って、恥ずかしそうにハンカチで目元をぬぐった。私は彼女の素直で豊かな感性に微笑むしかなかった。それが彼女の本心で、私とこんな風に遠出できるのが最後だなんてことは微塵も思っていないのだ。私にはそれがわかるから、わかる分だけさみしかった。
 すっかり食べるのを忘れていたお弁当を平らげ、お土産を選び、展望室から海を見る頃には日の光が黄みがかってきていた。ハナちゃんが腕時計で時間を確認した時、私の胸はすうと風が通るように冷え、喉が詰まるような感じがした。
「そろそろ行こうか」
 そう言ったのは私だった。ハナちゃんは鼻筋の通ったきれいな横顔で海を見つめたまま、
「さみしいね」
 とぽつりと言った。


 帰りも同じバスに乗って、だんだんオレンジ色になる風景の中を走った。今日の思い出を語り合っている内に、あっという間に駅に着いて、私たちの乗る列車もすぐにやってきた。今度は私が窓側に座り、ハナちゃんは通路側に腰掛けた。彼女は上着を膝掛けにして眠そうな顔をしている。私たちはお喋りをやめ、代わりに二人で片方ずつイヤホンを分け合って同じ音楽を聴いた。それはおとぎ話のようにロマンチックな歌で、それを二人だけで聴いているなんて心が通い合っているみたいで、私は嬉しくて、そして同じくらい切なかった。
 やがてハナちゃんは眠ってしまった。私は夕日が沈んでいく金色の空とそれを映す海を眺めていた。列車は海沿いの崖を走っていて、線路は弧を描いている。ゆく先にトンネルが見えてきて、あれを抜けるともう海が見えることはない。短い旅はもうすぐ終わりを迎えようとしている。私は、ハナちゃんの肩にそっと寄りかかった。彼女の髪や服からお香のような不思議な匂いがして、それがまた彼女らしくって、私はその香りを忘れないように深く息を吸い込む。その途端トンネルに入ったようで、車内はふっと暗くなり、ゴオオオオ…という轟音が私を包んだ。その音はとても大きいのに、聞いていると何故か安心する。「胎内」という言葉が私の頭の中に瞬いた。それは、暗くて温かくて眠たい場所だ…。
 不意に大きなものが通った気がして窓の外に目をやると、何かきらきらした塊がすごい速さで移動している。体を起こしてよく見ればそれは無数のイワシの群れで、彼らは列車に追い立てられながらも美しい渦となってその体をきらめかせていた。それは真っ黒な夜空にひるがえるオーロラにも似ていた。私は「ずっとここに居られたらいいのに」とさみしい心で祈りながら、眠っているハナちゃんのほかほかした手をきゅっと握った。