繭に待ち針 / 斜線



 目をつむるとまぶたの裏は赤かった。もっとぎゅっとつむると黒の中に白い模様がチカチカと浮かんだ。私はそれをよく見ようとして、つい目を開けてしまう。透明な強い光、触ったらやけどしそうな電信柱、短いスカート、サンダルを履いた足、その下にだけできる小さな影。私の国は夏だった。
 夏休みだというのに住宅地は静かだった。こんなにたくさんの家があるのに、誰も住んでいないみたい。この辺りの家は立派だけれど、その分どこかよそよそしい。コンクリートでできた塀に濃い緑色の蔦が這っていて、私はそれを指でなぞりながら歩く。この暑さではノラ猫もたまったものではないな、と私は思う。きっとどこか涼しいところに隠れているのだろう。私は額から流れ落ちてくる汗を手の甲でぬぐった。手の甲に乗った汗は正午の日差しできらきらと光った。
 リョウちゃんの家は私の家から歩いて10分くらいのところにある。彼とは幼稚園の頃からの幼なじみで、親同士の仲も良かった。だけど、2年前リョウちゃんがこのキレイな住宅地に引っ越してからはほとんど会っていない。理由はわからないけれど、親同士の交流が途絶えたようだった。私とリョウちゃんも、もう5年生だし何となく今までのように遊んではいけないような気分になっていた。だけれど、終業式の日、下駄箱のところで会ったリョウちゃんは言った。
「あさってうちに来てくれない?手伝って欲しいことがあるんだ」
 リョウちゃんの家に行ったのは引っ越してすぐの時と、風邪でお休みした日にプリントを届けにいった時の2回だけだった。私は少し迷いながらも見覚えのある角を曲がって、リョウちゃんの家の前に出た。表札を確認して、少し間を置く。なんだか緊張する。それでも意を決してチャイムを鳴らした。
「……」
 しばらく待っても応答がないので、聞こえなかったのかともう1度鳴らす。それでも反応がない。家の中で誰かが動くような気配もない。もしかして留守なのだろうか。
「自分で呼んだくせに」
 思わずそう呟いた時、肩掛けしていた鞄の中から音が聞こえてきた。私は子供用の携帯電話を持っていて、それは登録した人とだけ連絡を取れる仕組みになっていた。登録されているのは両親と一部の友達だけ。その中にはリョウちゃんも含まれている。私は慌ててケータイを鞄から取り出した。画面にはリョウちゃんの名前が表示されていた。
「もしもし」
「サエちゃんごめん、今手が離せないんだ。鍵開いてるから入っていいよ。待ってるから」
 私が出るとリョウちゃんはそれだけ言って電話を切った。
(お母さんはいないのかしら……)
 私は何となく腑に落ちないながらも白い門に手をかけて押した。大人の腰の高さくらいの門はキィと音を立てて開いた。庭には芝生が敷かれていて、玄関までは白い小さな石を並べた短い道がある。私はシャリシャリと足音を立てながら玄関の扉の前へ進み出た。扉を引いてみると言われた通り鍵はかかっていなくて、すんなりと開いた。家の中は外に比べると暗くて涼しく、私はおそるおそる靴を脱いで上がった。小さな声で「お邪魔します」を言うと、それは一瞬だけ廊下に反響してすぐに消えた。静かだ。リョウちゃんのお母さんどころか、リョウちゃんすらいないような感じがした。本当に入ってよかったのかと不安になったけれど、とりあえずリョウちゃんの部屋へ行こうと思う。私は彼の部屋を覚えていて、そこへ続く階段の前まで行った。居間の手前にある下りの階段。リョウちゃんの部屋は半地下になっていて、薄暗い階段を5段ほど降りると扉がある。私はその木製の扉にそっと耳をあてる。静かだ。やっぱり、静か。生き物の動く気配はない。それでも私は扉をノックする。コンコン。
「どうぞ」
 落ち着いた声が聞こえた。リョウちゃんだ。私は安心したようなガッカリしたような、妙な気持ちのまま扉を開けた。
 そこは廊下や階段と同じくらい薄暗い部屋だった。半分地上に出た窓から夏の日差しが差し込んでいて、それは映写機の映す光に似ていた。コンクリートの壁と床、木製の固そうなベッド、スチールのデスク、そこらに積み上げられた本。およそ子供部屋とは思えないこの場所の、真ん中にそれはあった。白い、艶のある、糸で編まれた楕円形のなにか。それは、部屋の四方八方に同じ素材で作られたと思しき太い紐で固定されて立っていた。私はこれにそっくりなものを見たことがあった。いつか森の木々の中で見たそれは、
「繭……」
 思わず声に出していた。ただし私の知っている繭とは大きさが随分違う。この部屋の中心に立つ繭は、1メーター50はある。
「サエちゃん、窓のところに脚立があるよ」
 一体何が起こっているのだろう。大きな繭の中から声がした。それも、リョウちゃんの声だ。窓の方へ目をやると確かに脚立が置かれている。繭の、上の部分が開いているのだ。リョウちゃんはそこから中を見て欲しいのだろう。私は脚立を窓辺から繭の隣に運び、そこに足を掛けた。脚立が小さく軋みを上げ、その音を聞いて私は躊躇った。中はどうなっているのだろう。本当に中にリョウちゃんはいるのだろうか。
「お願いがあるんだけど」
 私の躊躇いを察したのか、リョウちゃんは話しかけてきた。やっぱり声は繭の中から聞こえる。
「この繭を閉じるのを手伝って欲しいんだ。一人ではどうしても閉じられなくて。大丈夫、怖くないよ」
 私はその声に背中を押されるように脚立を上がって、ゆっくりと繭の中を覗き込んだ。中からリョウちゃんが見上げていて、目があった。リョウちゃんは嬉しそうに微笑んだけれど、私の顔はきっと強張っていたと思う。だって彼は裸で、胸から下は柔らかそうな大量の糸にふんわりと包まれていたのだから。
「びっくりさせてごめん。でも、急がないと。机の上に裁縫セットがあるでしょ?」
「リョウちゃん。どうしてこんなことになっちゃったの」
 私は混乱して、震える声でそう言った。
「サエちゃん、カネゴンって知ってる?」
 リョウちゃんは私を安心させようとしているのか、急に明るい声を出した。カネゴンは確か昔のテレビ番組に登場した、黄色くてひょうきんな顔をしている、あまり怖くない怪獣だったと思う。それを伝えるとリョウちゃんは笑った。久しぶりに見た笑顔だった。
「小銭が大好きな少年がある日繭に取り込まれて、出てきた時にはお金を食べる怪獣になってたんだって。そういうストーリー」
 リョウちゃんは私の引きつった顔に気付いて、でも慌てた様子もなく片手を上げた。その手には携帯電話が握られている。私のと違って子供用ケータイではなく、銀色でシャープな形をしていた。
「安心して、僕は怪獣にはならないよ。これ、その辺に置いておいて」
 私がケータイを受け取るとリョウちゃんはまた微笑んだ。幼い頃から整った顔をしていたけれど、成長した今その笑顔はとても綺麗で、ドキリとした。
「さあ、待ち針を取ってきて」
 私は彼に言われるがまま、机の上にケータイを置き、代わりに裁縫箱から針山を取り出した。そこには丸い頭の付いたカラフルな待ち針がたくさん刺さっている。
「ねえ、どうしてもやらなければいけないの?リョウちゃんは一体どうなってしまうの?」
 私は繭の中の彼に呼びかけた。やっぱり怖かった。それに、リョウちゃんが変身してしまうなんていやだとも思っていた。
「もう始まってしまったからね。失敗したら僕は、グズグズに溶けて死んでしまう。お願いだよ、サエちゃんに閉じて欲しいんだ」
 私は怖くてやるせなくて泣きそうになりながら、それでも丁寧に繭に待ち針を打っていった。触れた繭は綿菓子のように柔らかく、しかし丈夫そうでもあった。繭を閉じきってしまう前に、私は手を伸ばしてリョウちゃんの髪と頬に触れた。髪も肌も男の子とは思えないくらい柔らかくて、何だか懐かしい感触だった。彼は私の手に触れた。彼の体温は私の腕を伝わり、私の目からこぼれた涙は繭の中に染み込んでいった。
「ありがとうサエちゃん。3日後、また来てくれるかな。そしたらまた会える」
 待ち針によってすっかり閉じられた繭の中から、リョウちゃんは言った。私は「うん」とだけ頷いて、逃げるようにリョウちゃんの家を後にした。


 夏休みが始まって5日が経った。その日も朝から猛烈に暑くて、ベランダの朝顔もしおれてしまいそうだった。私はどうしても落ち着かなくて、午前中からリョウちゃんの家に向かった。今日が約束の3日後だった。
 リョウちゃんの家に着いてチャイムを鳴らしても、やっぱり誰も出てこなかった。私は門を押し、白い小石を踏んで、当たり前のように扉を開けた。3日前と同様に、薄暗くて涼しくて、静かな家だ。私は靴を脱いできちんと揃え、廊下を進んで右手にある階段を5段降りた。そしてそこにある扉に、そっと耳を当てた。何も。何も聞こえない。
「リョウちゃん?」
 私は中に聞こえるように呼びかける。応える声はなく、それはノックをしても同じだった。私は急に焦りを覚え、急いで扉を開けた。3日前と変わらない風景に私は戸惑い、部屋の中央の繭に駆け寄ってその表面に触れた。
「生きてる……のね?」
 生命を感じないひんやりした部屋の中で白々した繭だけが温かだった。よく見ると繭の周りには待ち針が落ちている。私が留めておいたところは綺麗にとじて、繋ぎ目がわからなくなっていた。私は、繭から離れて壁際に座った。リョウちゃんは繭の中で生きている。そう直感したからだ。私は待った。1時間、2時間。そして3時間。私は短い夢を見た。幼いリョウちゃんが微笑んでいる。何だか懐かしい感じのする広々した原っぱで、微笑みながら私を見ている。ただそれだけの夢だった。
 目が覚めて再び繭に焦点を合わせた時、私は慌てて立ち上がった。繭の一部に、穴が空いていた。
(出てくる。)
 胸が高鳴って、呼吸が速くなるのが自分でもわかった。私はこの時初めて、私を動かしていたものが私の体の奥底で蠢く好奇心だったのだと知った。リョウちゃんが一体どうなってしまうのか、私は知りたいと思っている。この目で見たいと思っている。小銭が大好きでカネゴンになってしまった少年の話を思い出す。リョウちゃんは一体、何が好きだったのだろう。何に変身したかったのだろう。
 パリパリ、パリパリと音を立てて白い繭は破れていく。私は息を詰めてそれを見つめる。パリパリ、パリパリ、パリ。
 最初に腕、それから頭、続いて足と胴が現れた。白くて軟弱そうな腕。さらさらした黒髪。O脚気味の足。つるりとした股間と膨らみかけの胸。小さな顎。小さな唇。低い鼻。それから、閉じられていた目が、ゆっくりと開いた。あの映写機のような光を受けて、その瞳は琥珀色に輝いた。繭から出てきたのは私だった。裸で、日焼けをしていない、無垢な私だった。私が一歩近付くと、もう一人の私は腕を広げて、私にはできない完璧な微笑みを浮かべた。あと一歩だ。あと一歩で私は彼女の身体に触れる。